早期教育の段階から古典を含む厳格な学問を叩き込まれるかたわら、当時の第一線の作曲家に薫陶をほどこされた。その後は
アビラやプラセンシアに職を得た。
1535年までに
ローマに移り、スペインの声楽家を贔屓にしていた
ローマ教皇パウルス3世の肝煎りで、教皇庁の聖歌隊で歌手を勤めるようになる。
1545年までローマにとどまり、
バチカンの聖座で使用人を勤めた。その後はイタリアで(
神聖ローマ帝国皇帝や
コジモ・デ・メディチに対して)求職活動を続けるも不首尾に終わり、スペインに帰国。スペインで得られた地位は、経済上ないしは政治上の困難により、相次ぐ挫折に見舞われた。この頃までにヨーロッパで最も偉大な作曲家として著名になっていたにもかかわらず、職探しをして境遇を得るのに難儀するようになっていたことから、どうやら使用人としては不人気だったようである。
ほぼすべての作品が宗教曲であり、そのすべてが声楽曲である。しかしながら楽器は、演奏の際に伴奏として使われていたかもしれない。モラーレスは数多くの
ミサ曲を作曲しており、そのいくつかは、おそらく教皇庁の聖歌隊のために作曲されたためであろう、目をみはるほどの難しさである。
モテットは100曲以上、
マニフィカトは18曲、
エレミアの哀歌は少なくとも5曲ある。(このうち1曲はメキシコの単独の手稿譜に存在している)。《マニフィカト》のみがモラーレスを他の作曲家から際立たせる存在であり、こんにち彼の作品の中ではこれらが最も頻繁に演奏されている。様式的に見ると、モラーレスの作品は、中期ルネサンスの他のイベリア半島の作曲家と多くの点で共通点があり、たとえば現代人の耳にとって
調性音楽のように聞こえる
和声進行への偏愛(4度や5度によるバスの動きは
ゴンベールや
パレストリーナよりも普通に行われている)や、
トーマス・タリスなどの同時代のイギリス音楽よりさらに自由な、
準固有和音や
借用和音の利用である。モラーレスの作曲様式で特徴的な点の一つが、リズムの自由であり、随所で3対4の
ポリリズムが認められ、また、ある声部が、他声部の主導的な拍節感を無視して、テクスト通りのリズムで歌うために、
クロスリズムが生ずる箇所もある。後半生において地味で重厚な
ホモフォニー様式で作曲するようになるが、一生を通じてモラーレスは、テクストの表現と分かりやすさを芸術上の最高の目標とした、注意深い職人なのであった。
モラーレスは国際的な名声を得た最初のスペイン人作曲家である。その作品はヨーロッパ全域で販売され、多くの楽譜は
新大陸にも渡って行った。モラーレス作品は、作曲者の死後から100年経ってもなお多くの音楽著作家や音楽理論家によって、当時の完璧な音楽の一つに数えられていた。