ローマ近郊の
パレストリーナに生まれる。ローマの
サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の聖歌隊員となる。1544年、パレストリーナの教会でオルガン奏者になる。教皇
ユリウス3世に求められ、1551年、教皇庁のジュリア礼拝堂の楽長、1555年に
システィーナ礼拝堂の聖歌隊歌手に任命された。イタリア・ルネサンスの時期、音楽は
フランドルが中心であり、ローマ教皇庁の音楽隊にもフランドルの音楽家を招くという状態であったが、パレストリーナはイタリア人音楽家として大きな名声を得た。
少なくとも100以上のミサ曲、250以上のモテトを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、「教皇
マルチェルスのミサ」が代表作である。
対抗改革(反宗教改革)の時期であり、厳格な教皇
パウルス4世によって、既婚者であったという教義上の理由により他の同様の音楽家とともに解雇された。その後、
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の楽長などを経て、パウルス4世の没後になると教義的障碍も無くなり、1571年再びジュリア礼拝堂の楽長に召還された。妻子を伝染病で亡くし、失意に陥るが、裕福な毛皮商の未亡人と再婚し、恵まれた晩年であったという。