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「ジョージ・レーゼンビー」||葬儀-master.com [05/24update]

ジョージ・レーゼンビー wikipedia|無料辞書

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| 生年 = 1939
| 生月 = 9
| 生日 = 5
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| ジャンル = 俳優
| 活動時期 = 1969年 -
| 活動内容 = 1969年:映画デビュー
| 配偶者 =
| 主な作品 = 『女王陛下の007
| 受賞 =
| その他 =
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ジョージ・レーゼンビー(George Lazenby,1939年9月5日 - )はオーストラリア出身の俳優。二代目ボンド役が有名、歴代ボンドのなかでも唯一、英国(ヨーロッパ圏)以外のオセアニア圏出身(オーストラリア)の俳優でもある。

◆ 略歴
レーゼンビーは1939年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤンに生まれた。高校を卒業後、彼はキャンベラにあるモリス・モーター社で車のセールスマンをしていた。スポーツではスキーが得意でスキーのインストラクターをしながらいくつかのスキー競技に出場した。また地元バンドにも所属しベースギターも演奏していた。そしてオーストラリア軍に所属し軍曹の階級を得てマーシャル・アーツのインストラクターをしていた。除隊後、1964年にロンドンに移り住み中古車のセールスマンを続けていたが、間もなくファッションモデルに転進。雑誌PB等の売れっ子モデルとなる。
その後イオン・プロダクションのスクリーンテストに合格、アクションの上手さをピーター・ハント監督に買われ1969年、映画『女王陛下の007』でジェームズ・ボンド役に抜擢される。しかし全く演技経験がなくイギリス英語が流暢に話せない彼は、撮影所ではトラブルメーカーの烙印を押され、製作途中でギャラアップを要求し、結局この一作で降板した。しかしショーン・コネリーの野性味あふれる個性とは違ったソフトで知的なボンドのイメージはレーゼンビーによって最初に作られ、以降のロジャー・ムーアのボンドへの布石となった。
後年、彼はボンド降板に関して「若さゆえの未熟さ、傲慢さが自分にはあった。あの時、私は輝かしいチャンスと失われていくチャンスを同時に目の当たりにした。」「もしもあの時、自ら降板していなければあとの7本も私が演じていただろう。」と語っている。(女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像インタビューより)
それでも歴代ボンドの中でもスタントマンを使わない生身の迫力ある彼のアクションは定評があり、ボンド役を降板してからも1973年に香港のゴールデン・ハーベスト社の名プロデューサー、レイモンド・チョウ(鄒文懐)の招きで彼の製作するブルース・リーの『死亡遊戯』にも出演する予定であった。レイモンドはブルース・リー&ジョージ・レーゼンビー(ボンドスター)の夢のコラボレーションで興行収入US1億ドルを見込んでいた。レーゼンビー自身もこの作品をきっかけとしてボンド降板後の起死回生を目論んでいたが、リーが急死して共演はかなわず彼は宙に浮いた存在となる。だが彼はその後ゴールデン・ハーベストから3本の映画の出演契約を取りつけることが出来た。
そしてマーシャルアーツの特技を活かしゴールデン・ハーベスト製作の香港映画『暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー』(1974年)(ファン・フェン監督)でアンジェラ・マオ(『燃えよドラゴン』)と共演、続いて香港・オーストラリア合作映画『スカイハイ』(1975年)(ブライアン・トレチャード・スミス監督)で悪役を演じてジミー・ウォングとも共演、この作品でレーゼンビーはスタントマンを使わず自ら火だるまになってジミー・ウォングとの格闘シーンに臨んだ。両作品とも興行的には成功しており彼のアクションが存分に生かされた。
それ以降はアメリカ・サンタモニカに移り住みレーサーをしていた。俳優としてはB級作品でしばしばボンドのパロディを演じている。特に『0011ナポレオン・ソロ2』(1983年)では、役名は明らかにされないがタキシードを来てアストンマーチンに乗るイギリスのスパイ役を楽しげに演じていた。近年は、DVD『女王陛下の007/アルティメットエディション:特典映像インタビュー』で姿を見せ、やや老け込んだ感はあるがその存在をファンにアピールしている。
現在は俳優業のかたわら実業家としての活動をしている。不動産投資などをしてハワイ、カリフォルニアやオーストラリアの牧場、香港の建物を多数所有している。
私生活では彼の最初の妻クリスティーナ・ガネットとの間に1男2女をもうけた。(うち一人の娘は脳腫瘍のため死別している。)
2002年にレーゼンビーは元テニスプレーヤー、パム・シュライバーと再婚し65歳で再び3人の子供をもうけた(うち2人は双子)が、2008年に離婚した。カリフォルニア高等裁判所の法廷では親権争いが繰り広げられ、パムは、レーゼンビーはアルコール依存症で、幼児の子供にビールを与えたり、酔って公共の場で反ユダヤ的言動を大声で行ったりした、2006年には同居を続けるかどうか議論していると、もし子供を取り上げるなら殺すと脅した、裁判の前年には腕に打撲傷を与えられ、その2ヶ月後には耳をよじられたなどと証言。雇われていたベビーシッター3人も、レーゼンビーはしょっちゅう怒っていて手がつけられなかったと証言した。これに対しレーゼンビーは、パムは毎晩処方された睡眠剤に鎮痛剤とラムかウォッカを混ぜたカクテルを飲み、いつも前後不覚に陥っていた、いっしょにゴルフのラウンドをしていたとき、クラブを頭に投げつけられた、彼女は長身のアスリートで自分より22歳も若いのに、などと反論