タタル(タタール)という語の現在明らかになっている最古の使用例は、
突厥が、当時
モンゴル高原東北の
バイカル湖方面で遊牧していたモンゴル系遊牧民の諸部族を総称して呼んだ
突厥文字で記した碑文においてである。のちに中国の側もテュルク語のタタルを取り入れ、
唐末には当初「達靼」や
遼では「達旦」などと表した。こうして
宋や
金では彼らの総称として漢語名「韃靼」が生まれた。
これらの遊牧諸部族は突厥滅亡後のモンゴル高原中央部でテュルク系の
ウイグル、
キルギスの
遊牧国家が相次いで倒れると南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していた
キタイが
遼を建国するとこれらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続けるが、この時期に台頭した
ケレイト部、
ジャライル部などと並ぶ有力部族のひとつに元来は他称であったタタルを自称の部族名とする
タタル部があった。隋唐時代に
室韋の後身で、オルホン碑文に「30姓タタル」Otuz Tatar の一派がモンゴル時代前後に活躍したタタル諸部族と考えられている。11世紀の
マフムード・カーシュガリーの『テュルク語集成』にも、タタール(Tat?r)は、
東ローマ帝国(al-R?m)から中国(al-??n)の地までに広がるテュルクの一部族としてキプチャクやオグズ、キルギス(Qirqiz)などとともに述べられているが、これらとの関係は不詳である。
タタル部は
12世紀に遼に取って代わった
金と結んでモンゴル部のアンバガイ・カンを殺したためモンゴル部の恨みを買い、12世紀末にモンゴル部の部族長となった
チンギス・カンが勃興するとモンゴル部によって滅ぼされた。やがてチンギス・カンがモンゴル高原のモンゴル系・テュルク系遊牧諸部族を統合して
モンゴル帝国が興ると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったもののモンゴル帝国を構成するモンゴル部族連合に所属する一部族として存続した。
『集史』では
チンギス・カンのオルドの管理を行っていた最有力の大ハトゥンが第一皇后
ボルテを含め五名いたことが述べられているが、うち第五皇后イェスルンおよび第三皇后イェスゲンの姉妹はトトクリウト・タタル氏族の首長イェケ・チェレンの娘たちであった。チンギス・カンの養子としてホエルンらに養育されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族は氏族それぞれがチンギス・カン家の各王家で有力な部将や姻族として政権の中枢を担った。