元々、
浅草の通称「
公園六区」にあった
ストリップ劇場で、北野武(ビートたけし)は
浅草フランス座(現在は演芸場の浅草東洋館)で
深見千三郎門下の
コメディアンとしてコントの下積み修行を、兼子二郎(ビートきよし)は
浅草ロック座で劇場進行の修行をしていた。たけしは当初、同じフランス座の同僚とコンビを組んでコントを演じたこともあったが、相方の男性が神経性の病気から入院したため、自然消滅。きよしも
レオナルド熊の弟子と漫才コンビを組んで名古屋の
大須演芸場に出演することになっていたが、レオナルド熊がその弟子を破門したため代わりの相方を探していた
[TOKYO FM・JFN系『ビートたけしのラジオ黄金時代 街で一番の男・ビートニクラジオ』(ゲスト:ビートキヨシ、1998年4月12日放送分より)]。
きよしは以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあったたけしに声をかけて新たにコンビを組んだ。ここで後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる
[ビートたけし作詞・作曲・歌の歌『浅草キッド』に登場する相棒はきよしではなく、たけしがフランス座時代、一緒に活動していたコントコンビの相方が主人公となっている。テレビドラマ版ではこのあたりはストーリーを簡潔にするために、相方ははじめからきよしである事になっている。]。当初はきよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルだったが、コンビは全く評価されない状況が続いた。楽屋内でも師匠と弟子の縦のラインが強い漫才師の集団で、コントからの転向組という立場は彼らを浮き上がらせていた。
きよしの「やはり有名な師匠の所に居ないとだめだよ」との発案で
松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、
松鶴家二郎・次郎を名乗って活動を行った。また、きよしが
コロムビア・ライトの付き人経験があったことから、
空たかし・きよしとして舞台に上がったこともあったが、相変わらず状況は変わらなかった(ライトが相方である
コロムビア・トップと絶縁状態にあったため
青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。芸人社会の顔で人望のあった深見千三郎が一言、「たけしを頼む」と周囲に声をかけたなら事情も変わったとする見方もあるが、深見はたけしを可愛くおもいながら最後まで弟子の漫才転向を醒めた視線で捉えていた。
この八方塞がりの状況でたけしがきよしに代わって主導権を握る事となり、コンビ名を
ツービートと改名
[きよしいわく、この名前に改名する際には別の候補として「丸井・西武」という名前もあったという。『ビートたけしのラジオ黄金時代 街で一番の男・ビートニクラジオ』(TOKYO FM・JFN系、ゲスト:ビートキヨシ、1998年4月12日放送分より)]。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となった。しかし決定的だったのは大阪の新進漫才師・
B&Bの
島田洋七との出会いである。後に
紳助・竜介も倣うシンプルで間を減らしたテンポの速い“16ビートの漫才”“客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタは勿論、
差別用語から、
放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものを敢えて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった
[自著『浅草キッド』太田出版、1988年、206-208頁。]。