ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残されていない。
1707年7月、『バルト海の新しい読み物(Nova literaria Maris Balthici)』誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事は、「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と伝えるのみである
[山下道子、4頁。]。したがって、ブクステフーデは、
1637年頃に父ヨハネスが活躍していたヘルシンボリで生まれたものと考えられている
[ブクステフーデの出生地は、以前はオルデスロー説が有力であった(Wilhelm Stahl, "Dietrich Buxtehudes Geburtsort", Die Musikforschung, 1951)。これは、ヨハネスという名のドイツ人教師が1638年にオルデスローにいたという記録にもとづく。しかしながら、このヨハネスという人物はオルガニストとして活躍した形跡がないことから、ブクステフーデの父と同一人物であることに疑問が生じている。一方、父ヨハネスのヘルシンボリにおける活動を示す史料は1641年のものであるが、当地のオルガニスト職は1633年に空席になっていることから、この頃当地に移った可能性が高い(Niels Friis, Diderik Buxtehude, Copenhagen: Dan Fog-Olsen, 1960)。このため、今日ではヘルシンボリ説が有力になっている(Snyder 2007: pp. 5-7)。]。ブクステフーデが幼年期に受けた教育についても推測の域を出ない。おそらく父からオルガン等の音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアの
ラテン語学校に通ったと考えられる
[山下道子、5頁。]。ブクステフーデが
ドイツ語に加えて、
デンマーク語も使用していたことは、ヘルセンゲア時代の日付の残る3通の手紙の存在から明らかである
[Snyder 2007: p. 11.]。
1658年、ブクステフーデはかつて父が在職したヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任する。当時、デンマークとスウェーデンはバルト海の覇権をめぐって激しく争っており、1658年2月の
ロスキレ条約において、デンマークはヘルシンボリを含むスコーネ地方をスウェーデンに割譲する。ヘルシンボリは、この間、実際の戦闘に巻き込まれることはなかったが、両国への兵力の拠出と戦争に伴う経済の混乱によって大きく疲弊する
[デンマーク、スウェーデン両国の通史については、百瀬宏、村井誠人編『北欧史』新版世界各国史21、山川出版社、1998年8月。また、当時のヘルシンボリの状況については、Snyder 2007: p. 27。]。ブクステフーデの声楽作品には、
30年戦争の戦禍に苦しめられた
17世紀ドイツの民衆に特有な心情が少なからず反映されているが、ブクステフーデ自身もまた青年期にこうした戦争体験を共有している
[30年戦争等のプロテスタント教会音楽への全般的な影響については、バロック音楽研究会、71-72頁。ブクステフーデの声楽曲におけるその反映については、本項のを参照。]。一方、
1662年、聖マリア教会のオルガンの修理がなされた際に、すでにヘルシンボリを離れていたブクステフーデに鑑定が依頼されたことは、当時すでにブクステフーデがオルガンの専門家として認められていたことを示している
[Snyder 2007: p. 30.]。