7歳のときに父親の手ほどきで
クラヴィーア演奏を始める。当初は彼女も
神童であるかに思われた。我が子の楽才を世に知らしめんとした父親に同伴されて、
ウィーンや
パリなどの都市を旅する。幼い頃には演奏旅行で、時に最高の俸給を稼ぎ出したように、傑出した
チェンバロ奏者や
ピアニストとして認められていた。しかしながらついにナンネルの才能は、弟の陰に隠れるようになった。彼女自身も才能ある
音楽家であったのだが、しばしば演奏旅行の合間に弟ヴォルフガングの伴奏役に回り、作曲家としても名を揚げることはできなかった。ヴォルフガングは数多くの
ピアノ曲、とりわけ
連弾曲を作曲し、姉と二人で並んで演奏できるようにした。ヴォルフガングは姉ナンネルルの才能を尊敬し、彼女ならウィーンで音楽教師として成功することができると確信していたにもかかわらず、彼女の有望な前途は実らなかった。
モーツァルトがある程度まで父親に反抗したのに対して、ナンネルルはひとえに父親の監督を受け続けた。このために、また当時の女性観のために、レオポルトは弟を中心に考え、彼女は結婚するのが相応しいと見なしたのである。彼女は、自ら花婿候補を選んだが、父親に反対されて、父親の選んだ「立派な」相手こと富裕な
判事、ヨハン・バプティスト・フランツ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾネンブルクのもとに嫁いだ。それに加えて、弟の反抗や、
コンスタンツェとの結婚は、姉弟の仲を引き裂いたかに思われた。