弘長3年(
1263年)25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、
文永8年(
1271年)32歳で再び出家、
信濃の
善光寺や
伊予国の
窪寺、同国の
岩屋寺で修行する。文永11年(
1274年)には
四天王寺(
摂津国)、
高野山(
紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。
紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した
熊野本宮で、
阿弥陀如来の
垂迹身とされる
熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。
建治2年(
1276年)には
九州各地を念仏勧進し、
他阿らに会い、彼らを時衆として引き連れるようになる。