外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠き、かつ三条天皇が納れた道長の次女・
中宮妍子が両者の期待を裏切って女児を生んだこともあり、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った
[仙丹の服用直後に、視力を失ったといわれる。仙丹は、中国で古代より不老不死の妙薬とされていたが、毒物の硫化水銀・硫化砒素を大量に含んでいた。]。更に
内裏の火災
[三条天皇は即位後に新造の内裏(ただし、実際には一条天皇の寛弘3年(1006年)に建てられてそのまま未使用であった内裏)に入ったものの、長和3年(1014年)・翌4年(1015年)と相次いで焼失した。]や病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子
敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位した。翌寛仁元年(1017)4月に出家し、程なく42歳で没した。
三条天皇の死後、その長子敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、ついに自ら東宮を辞退する挙に出た。このことにより冷泉・円融両系の
両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた皇女
禎子内親王を通じて以後の天皇家へ受け継がれていくことになる。