弾圧する為政者側からは「
廃仏」と呼ぶが、弾圧される
仏教側からは非難の意味を込めて、仏教にとってこの皇帝の時代は不運であったことを表す用語として「
法難」という語が用いられる。古くは、後述される政治・経済上の要因まで考慮されることがなく、仏教に対する攻撃の裏には必ず道教勢力の暗躍があったため、それに扇惑された皇帝が廃仏事件(仏教側から見た法難)をひき起こしたのだとする一方的な見方をされるのが常であった。
弾圧政策の具体的内容は、
寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を意味する訳ではない。一般施設や住居に転用される場合が多い)と財産の没収、
僧の
還俗であり、特に後周の世宗の場合は純粋に、寺院の財産を没収するとともに、国家の公認した
度僧制度によらず勝手に
得度した者(
私度僧)や、脱税目的で僧籍を取る者(
偽濫僧)を還俗させて税を課そうとする、財政改善を狙った経済政策であった。
銅(貨幣の材料)や
鉄(武器の材料)という金属を中心とした物資を仏寺中の仏像や
梵鐘などから得ることも、当時の情勢(唐の武宗時代の銅銭不足による経済混乱、後周の世宗時代のいわゆる「
十国」の再統一事業)からして、差し迫った問題であった。
軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に
五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、
北斉の史官
魏収は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは、必要に迫られた事情であったと言える。ただ、3万箇寺、僧尼2百万人というのは、北朝・南朝にかかわらず、『
魏書』以外の史料に見える数字と比較しても著しく突出しており、仏教崇拝の弊害を強調しようとして誇張したものと考えられる。