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「上総国」||葬儀-master.com [05/26update]

上総国 wikipedia|無料辞書

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上総国の位置
上総国(かずさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、東海道にある。現在の千葉県の中部を占める旧国名。設置当時は千葉県南部、後の安房国も含んでいた。総州(そうしゅう)とも呼ばれた(特に上総のみを指して南総(なんそう)と呼ばれる事もある)。
延喜式での格は大国、遠国。
常陸国上野国とともに親王国司を務める親王任国であり、平高望良兼菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介であった(天長3年(826年)旧暦9月6日以後より)。
なお、国の上下は京よりの経路の遠近により定められるため今日の見地では房総半島南部の上総国の方が下総国より遠く感じられるが、延喜式の定められた当時、武蔵国と下総国の間は小舟しか通れない広大な湿地帯であり、総州へは海路にて赴くものと考えられていたため房総半島南部が上総となった。

◆ 沿革
古語捨遺によるとよき麻の生きたる土地というところより総国(ふさのくに)と称したという。大化の改新前代には須恵馬来田上海上伊甚武社菊麻阿波国造長狭国造の国々があり国造がおかれたが、改新後、総国は分割され房総半島南部が上総国となった。また律令国家建設にともない、東海道に属する一国となり、市原・海上・畔蒜・望陀・周淮・埴生・長柄・山辺・武射・天羽・夷?・平郡・安房・朝夷・長狭の15郡をもって上総国とした。元々東海道は、海つ道(海路)であり、房総半島畿内に近い南部の方が上総国、遠い北部が下総国と名づけられた。上総は古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化し、7世紀末に既に上?と書かれる例がある。国府は市原市能満付近。718年(養老2)このうち平郡・安房・朝夷・長狭の4郡をさいて安房国を独立させる。養老2年(718年)5月2日、南部の平郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて安房国とした。天平13年(741年)12月10日、安房国を併合した。天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。この時から、長く領域は変わらなかった。そして826年(天長3)親王任国の一つとなり国級は大国にランクされる。古代末期から中世にかけて上総氏が活動し、鎌倉期には上総広常、その亡き後は足利氏となる。室町時代の守護には高氏佐々木氏千葉氏新田氏上杉氏の各氏が就いた。15世紀半ばごろより、原氏武田氏酒井氏土岐氏正木氏らの各氏が割拠。16世紀前半には下総生実によった小弓御所足利義明の影響が強まった。足利義明1538年(天文7)の国府台合戦で敗死した後は上総は小田原の後北条氏、安房の里見氏の抗争の地となり、在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。豊臣秀吉小田原の役後、関東徳川家康が転封されると大多喜の本多氏を筆頭に万石5氏がおかれ、江戸期には久留里、飯野、佐貫、鶴牧、一ノ宮、大多喜、請西の7藩と幕府領、旗本領が展開し、村数は約1200ヵ村(天保期)を数えた。幕末から明治政府成立の過程で請西藩は朝命に抗したという理由で1868年(明治元)12月領地没収となる。また徳川家達を駿府70万石に封じたことによって1869年(明治2)までに菊間、桜井、小久保、鶴舞、芝山、大網の6藩が新たに置かれた一方、幕府領、旗本領は安房上総権事柴山典の管轄におかれた。1869(明治2)の版籍奉還で藩主は知藩事となり、安房上総知県事となり安房上総知県事の管轄地には宮谷県がおかれ、柴山典が権知事となり管轄地は上総において約8万7千8百石。安房を加えると計37万千7百石であった。1872年(明治4)廃藩置県が行われると旧藩領と宮谷県は大きく木更津県に統合された。1874年(明治6)には木更津県と下総を管轄していた印旛県が統合し千葉県が成立し、管轄が移行した。

◆ 地域

◇ 古代-中世

  荘園