古語捨遺によるとよき麻の生きたる土地というところより
総国(ふさのくに)と称したという。
大化の改新前代には
須恵・
馬来田・
上海上・
伊甚・
武社・
菊麻・
阿波国造・
長狭国造の国々があり国造がおかれたが、改新後、総国は分割され
房総半島南部が上総国となった。また律令国家建設にともない、
東海道に属する一国となり、市原・海上・畔蒜・望陀・周淮・埴生・長柄・山辺・武射・天羽・夷?・平郡・安房・朝夷・長狭の15郡をもって上総国とした。元々
東海道は、海つ道(海路)であり、
房総半島の
畿内に近い南部の方が上総国、遠い北部が
下総国と名づけられた。上総は古くは「
かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化し、7世紀末に既に
上?と書かれる例がある。国府は市原市能満付近。718年(養老2)このうち平郡・安房・朝夷・長狭の4郡をさいて安房国を独立させる。養老2年(
718年)5月2日、南部の平郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて
安房国とした。天平13年(
741年)12月10日、安房国を併合した。天平宝字元年(
757年)に再び安房国を分けた。この時から、長く領域は変わらなかった。そして
826年(天長3)
親王任国の一つとなり国級は
大国にランクされる。古代末期から中世にかけて上総氏が活動し、鎌倉期には上総広常、その亡き後は足利氏となる。
室町時代の守護には
高氏、
佐々木氏、
千葉氏、
新田氏、
上杉氏の各氏が就いた。
15世紀半ばごろより、
原氏、
武田氏、
酒井氏、
土岐氏、
正木氏らの各氏が割拠。
16世紀前半には下総生実によった
小弓御所足利義明の影響が強まった。
足利義明が
1538年(天文7)の
国府台合戦で敗死した後は上総は小田原の
後北条氏、安房の
里見氏の抗争の地となり、在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。
豊臣秀吉の
小田原の役後、
関東に
徳川家康が転封されると大多喜の
本多氏を筆頭に万石5氏がおかれ、江戸期には久留里、飯野、佐貫、鶴牧、一ノ宮、大多喜、請西の7藩と幕府領、旗本領が展開し、村数は約1200ヵ村(天保期)を数えた。幕末から
明治政府成立の過程で請西藩は朝命に抗したという理由で
1868年(明治元)12月領地没収となる。また徳川家達を駿府70万石に封じたことによって
1869年(明治2)までに菊間、桜井、小久保、鶴舞、芝山、大網の6藩が新たに置かれた一方、幕府領、旗本領は安房上総権事柴山典の管轄におかれた。1869(明治2)の版籍奉還で藩主は知藩事となり、安房上総知県事となり安房上総知県事の管轄地には宮谷県がおかれ、
柴山典が権知事となり管轄地は上総において約8万7千8百石。安房を加えると計37万千7百石であった。1872年(明治4)廃藩置県が行われると旧藩領と
宮谷県は大きく木更津県に統合された。1874年(明治6)には
木更津県と下総を管轄していた
印旛県が統合し
千葉県が成立し、管轄が移行した。