15世紀後半に
朝鮮の船が
宮古島に漂着した記録の中に下地島に比定される「時麻子島」の記述があり、宮古島と下地島など近隣の5島の島民は互いに往来していたという
[『李朝実録』 世祖8年(1463年)]。遺跡は見つかっていないが、当時人が住んでいた事がうかがえる。また、
古琉球の頃にはキドマリ村(木泊村)が伊良部島の佐和田にあったとされ、村跡が残る。この村は古琉球の間に
津波で壊滅したとされるが、
16世紀の
嘉靖年間に喜屋泊与人に関する記述があり、この喜屋泊が木泊とするならば当時まで村が存在したと考えられる
[『伊安氏正統家譜』]。
近世初頭に伊良部村の伊安姓国仲与人が八重山で牡牛・牝牛を2匹購入してきて放牧したといい
[『宮古島記事』]、以降は
牛や
馬の
牧場があった。
乾隆32年(
1767年)に与世山親方は、馬が風雨や寒暑をしのぐために
アダンや諸木を植えるよう指示している
[『与世山親方宮古島規模帳』]。乾隆34年(
1769年)に伊良部島との間に佐和田矼(ナカユニ橋)が築かれた
[『白川氏支流家譜』]が、乾隆36年の
八重山地震にともなう明和大津波により一部が破壊された。この津波では下地島に13
丈(約40m)もの高さの大波が打寄せ、西岸の帯岩などが打上げられた。平坦なため放牧地や
畑が水没し、馬や牛、
羊などが溺死している
[『御問合書』 伊佐家文書]。