文永4年(1267年)には皇后の腹に皇子の世仁親王(
後宇多天皇)が生まれ、翌五年後嵯峨院の意向をもとにこれを立太子。文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御し、
治天の君の継承と、
皇室荘園領の問題が起こる。後嵯峨は治天下の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされ、幕府は後嵯峨の内意を問い、大宮院の内意が亀山であったとする証言から亀山親政と定まる。文永11年(
1274年)正月、亀山は皇太子世仁に譲位して
院政を開始。亀山は
院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「
徳政興行」と評された。