会津藩 wikipedia|無料辞書
◆ 歴史
◇ 関ヶ原以前
戦国時代、
会津地方は後の
会津若松である
黒川を本拠とする戦国大名、
蘆名氏の領国であった。天正17年(1589年)に
伊達政宗が
蘆名氏を滅ぼして黒川を本拠としたが、天正18年(1590年)に
豊臣秀吉の
奥州仕置によって、会津地方及び周辺地域は政宗から没収され、代わって
蒲生氏郷に与えられた(42万石、後に92万石)。氏郷は黒川を
若松と改め、上方から商人を呼び寄せるなど、領国経営に功績を残した。
氏郷の死後、慶長3年(1598年)に子の
蒲生秀行は
宇都宮へ減封(12万石)となり、代わって
越後から
上杉景勝が入封(120万石)した。景勝は
関ヶ原の戦いで石田方に与したため、慶長6年(1601年)に
米沢へ減封(30万石)となった。
◇ 蒲生時代
慶長6年(1601年)、
上杉景勝に代わって、
関ヶ原の戦いで徳川方に与した蒲生秀行が、再び加増の上入封(60万石)した。二代目の
蒲生忠郷が寛永4年(1627年)に若くして急死すると、無嗣により改易となる所を、母が徳川家康の娘であるため、同母弟の
蒲生忠知を当主として
伊予松山での減封(30万石)存続が許された。
◇ 加藤時代
寛永4年(1627年)、蒲生氏と入れ替わりで
伊予松山から
加藤嘉明が入封した(40万石)。しかし二代目の
加藤明成が、家中騒動の末(
会津騒動)、領地返上を願い出て改易となった。
◇ 松平時代
加藤氏改易の寛永20年(
1643年)に、
出羽国山形藩にあった、二代将軍
秀忠の子の
保科正之が、23万石で入封した。幕末までに
内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の
水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。
保科正之は、三代将軍
家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなしたが、武田家遺臣の出自を持つ養父に義理立てをして、松平姓に改姓することを遠慮していた。
保科氏は三代正容(正之の子)のとき松平氏に改姓し、
徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。以後、保科氏の子孫である
会津松平家が治めた。家格は
親藩・
御家門で、家紋は
会津葵を用いた。旗印は漢字一文字で「會」。
◇ 幕末
最後の藩主となった九代
容保は、八代容敬の女婿となって
美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。文久2年(1862年)、容保は
京都守護職となり、更に
新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派
志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして
禁門の変では、
孝明天皇を奪取しようとした
長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御
宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は
鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に、容保の嫡男・
容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(
青森県むつ市)にを立てた。一方、会津地方は
廃藩置県を前に、明治政府民政局による直轄地となった。その後
若松県となったものの、明治9年(1876年)には
福島県に合併された。
◆ 歴代藩主
◇ 蒲生家
外様 - 91万9千石(1590年 - 1598年)