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「会津藩」||葬儀-master.com [05/27update]

会津藩 wikipedia|無料辞書

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会津藩(あいづはん)は、陸奥国(後の岩代国)会津郡にあって現在の福島県西部を治めた。藩庁は若松城(会津若松市)。

◆ 歴史

◇ 関ヶ原以前
戦国時代会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名、蘆名氏の領国であった。天正17年(1589年)に伊達政宗蘆名氏を滅ぼして黒川を本拠としたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉奥州仕置によって、会津地方及び周辺地域は政宗から没収され、代わって蒲生氏郷に与えられた(42万石、後に92万石)。氏郷は黒川を若松と改め、上方から商人を呼び寄せるなど、領国経営に功績を残した。
氏郷の死後、慶長3年(1598年)に子の蒲生秀行宇都宮へ減封(12万石)となり、代わって越後から上杉景勝が入封(120万石)した。景勝は関ヶ原の戦いで石田方に与したため、慶長6年(1601年)に米沢へ減封(30万石)となった。

◇ 蒲生時代
慶長6年(1601年)、上杉景勝に代わって、関ヶ原の戦いで徳川方に与した蒲生秀行が、再び加増の上入封(60万石)した。二代目の蒲生忠郷が寛永4年(1627年)に若くして急死すると、無嗣により改易となる所を、母が徳川家康の娘であるため、同母弟の蒲生忠知を当主として伊予松山での減封(30万石)存続が許された。

◇ 加藤時代
寛永4年(1627年)、蒲生氏と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が入封した(40万石)。しかし二代目の加藤明成が、家中騒動の末(会津騒動)、領地返上を願い出て改易となった。

◇ 松平時代
加藤氏改易の寛永20年(1643年)に、出羽国山形藩にあった、二代将軍秀忠の子の保科正之が、23万石で入封した。幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。
保科正之は、三代将軍家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなしたが、武田家遺臣の出自を持つ養父に義理立てをして、松平姓に改姓することを遠慮していた。
保科氏は三代正容(正之の子)のとき松平氏に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。以後、保科氏の子孫である会津松平家が治めた。家格は親藩御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字一文字で「會」。

◇ 幕末

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最後の藩主となった九代容保は、八代容敬の女婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。文久2年(1862年)、容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩長州藩との対立が激化した。大政奉還王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には先帝よりの御宸翰があったにも関らず朝敵とされたのである。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に、容保の嫡男・容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)にを立てた。一方、会津地方は廃藩置県を前に、明治政府民政局による直轄地となった。その後若松県となったものの、明治9年(1876年)には福島県に合併された。
後に、容保の家系からは初代参議院議長松平恒雄雍仁親王妃勢津子父子、福島県知事松平勇雄や、現:徳川宗家当主?川恒孝が出ている。

◆ 歴代藩主

◇ 蒲生家
外様 - 91万9千石(1590年 - 1598年)