ここにあるのは「信仰」「善行」「義認」をめぐるそれぞれの理解の衝突である。行為と善行を対立させるルターの解釈については、カトリック教会や
東方正教会の論者からは、以下のような反論がなされてきた。曰く、善行が単独で救いをもたらすと説いているのではなく、信仰と善行が救いをもたらすのである、真の信仰は主観的な信仰ではなく必ず善行をともなわずにはおかないなどである。一方で、ルターの意思論や行為理解からすれば、真に善行といいうるのは、自分が神の救済を受けたいというようなレベルをすら超えて純粋な愛からなされうる行為のみである。そのような行為は、神の恩寵のうちにのみ可能であろう。そのとき善行は義認の原因ではなく結果としてのみ可能であり、「善行に拠る義認」という事態は存立し得ないということになる。結果としては、善行と信仰の必然的な結びつきをすべての論者は共有しつつ、しかしその結びつきのあり方をめぐって、かみ合わない議論が展開されてきたといえる。