事件後、浪士たちの処置をめぐって
幕閣内で意見の対立があり綱吉は裁定に苦慮していた。
元禄16年(
1704年)2月1日、公辨法親王が年賀のため綱吉に謁すると、綱吉は雑談の中で
赤穂浪士の処断に苦慮していることを話題にした。綱吉はいったんは切腹を命ずる決裁を下していたが、浪士の命を惜しむ気持ちを捨てきれなかった。しかし将軍として彼らを許せば、かつて
浅野内匠頭にだけ切腹をさせた自分の裁断は片手落ちであったと認めることになってしまい、将軍権力に傷が入ることが避けられなかった。そこで公辨法親王から助命があったということにできれば、あくまで
皇族からの要請であるという形にできるので、それに基づいての赦免ならば将軍権力にも傷が入らないということを期待していたようである。