西本願寺の主張によると、もともと教如は天正8年の石山本願寺退去の折、
織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという。顕如の次男である
興正寺顕尊(教如の同母弟)は、准如の後見人として自分の娘を正室として迎えさせるなど准如の支持にまわる。最終的に准如の母が信長の家臣であった秀吉に頼み込んで三男の相続が実現する。准如自身も教如とは異母兄弟
[母は同じ如春尼という説もある]で折り合いが悪かった。