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「初代ラッセル伯ジョン・ラッセル」||葬儀-master.com [05/27update]

初代ラッセル伯ジョン・ラッセル wikipedia|無料辞書

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初代ラッセル伯ジョン・ラッセル (John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, , 1792年8月18日 - 1878年5月28日)は、イギリスの政治家。1861年まではジョン・ラッセル卿(Lord John Russel)として知られた。哲学者のバートランド・ラッセルは孫にあたる。

◆ 概要
第6代ベドフォード公ジョン・ラッセルと、最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた。イングランド有数の富豪であり、17世紀以来ホイッグの政治家を輩出してきたラッセル家出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。
パブリックスクールウェストミンスター・スクールエディンバラ大学(3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだJohn Prest, Lord John Russell (University of South Carolina Press, 1972), 11-13. 。彼は、イギリス史上4人しかいない、『オックスフォード大学ケンブリッジ大学のどちらにも在籍しなかった首相』の1人である(その他は第3代ビュート伯ネヴィル・チェンバレンゴードン・ブラウンである)。
1813年、ホイッグの議員として選出。改革派の政治家でグレイ内閣では、第一次選挙法改正案を起草した一人。メルボルン内閣では内相・植民地相を歴任。
ラッセルの第一次内閣(1846〜51、1851〜1852)は、1840年代後半のジャガイモ飢饉と時を同じくした。アバディーン内閣では、外相・下院指導者を歴任。クリミア戦争が勃発して、アバディーン伯首相が国民の支持を失うと政権の禅譲を狙って首相の足を引っ張って下院の指導役を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、パーマストン内相に首相の座を奪われた。
第二次パーマストン政権では、外相を務めた。イタリアの統一運動を支持したが、パーマストン首相に反対され介入できなかった。生麦事件に端を発した日本の薩摩藩との武力衝突(薩英戦争)では、武力行使に積極的な役割を演じた。
パーマストンが1865年終わりに突然亡くなると、ラッセルが再び首相に登板した。選挙法改正案に敗れ辞職。