曹操に仕え、広い才能と学識によって、曹操の長男・
曹丕(文帝)をはじめとする諸侯から寵愛された。曹丕と
曹植による後継争いが起きると、兄弟の間をうまく立ち回りつつ、曹丕の擁立に尽力した。曹丕に曹操の前で嘘泣きさせて、あたかも感動させているように見せかけたという逸話がある
[西晋の郭頒『世語』より]。
劉?とともに曹丕の賓客として出入りしていたが、劉?が不敬罪で処罰を受けた時、地方に出され朝歌の
県長となり、元城の令となった。
217年の疫病で
建安七子を初めとする当時を代表する文学者が次々に没する中、生き残った呉質は
王象などと共に曹丕の寵愛を受けるようになる
[『魏略』や『文選』には曹丕が彼に宛てて送った書簡「朝歌令呉質に与うる書」「呉質に与うる書」が収録されている。その中では建安七子たちとの交流の楽しみや彼らに対する評価、自らの不才と皇太子であることへの孤独や不安、呉質の近況を気遣う気持ちが率直に表されている。これは曹丕の呉質に対する信頼の厚さと同時に「胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった」と評される曹丕の性格の一面をうかがわせるものとなっている。]。曹丕が太子となると、
司馬懿・
陳羣、
朱鑠と共に太子四友となったという(『晋書』宣帝紀)。曹丕が皇帝として即位すると、かつての遊び仲間の中で、呉質のみが長史という低い身分のままであったのを哀れみ、呉質を召しだして北
中郎将に任命し、列侯に取り立て、さらに使持節督幽并諸軍事に任じ、信都においた。時期は不明だが、最終的には振威将軍・仮節都督
河北諸軍事に昇進したとある。
宴席などでも曹丕は呉質にいろいろと特別待遇を与えた。呉質は曹丕の寵愛をかさにきて、他人には傲慢で勝手に振る舞う一面があったとされ、
曹真や朱鑠に対し宴席で無礼な振る舞いをしたとされる(呉質伝が引く『呉質別伝』)。また、北中郎将時代、呉質は
幽州刺史の
崔林が頭を下げようとしなかったため、功績を挙げていたにも関わらず河間
太守に降格したとある(崔林伝)。