明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、4代くらいに渡って兄弟姉妹、配偶者、其々の子供、子孫ら家族全てが記されていた。男子は結婚しても兄弟全ての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍することはなかった。分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた。大正時代の平民宰相
原敬は上級武士の家柄であったが、当時の
徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より
世襲の俸禄(家禄)を受け、
名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の
封建制的な社会制度は明治政府が行う
四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。の
版籍奉還で武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の
財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。
士族身分の解体により大量の失業者が発生した。秩禄を失った士族は
政府や諸
官庁に勤めたり、
軍人、
教員などになることもあったが、職に就けずに没落する者も多く、慣れない商売に手を出して失敗し「
士族の商法」と揶揄されることもあった。政府による救済措置として、困窮した士族を救済する
士族授産が行われたが、
北海道への
屯田兵移住などを除き失敗する例が多かった。
西郷隆盛が唱えた
征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。こうした状況から新政府の政策に不平を唱える士族(不平士族)による反乱(
士族反乱)が各地で発生した。また、初期の
自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。