このように職務多忙であったことから外記の地位も上昇し、
平安時代中期には五位に昇進する大外記も現れるようになった。これを
大夫外記と呼ばれた。後に大夫外記の筆頭を「
局務(きょくむ)」とも称するようになる。また人数を補うために
権官(権大外記・権少外記)などが設けられる事があったが、
文治3年
12月4日(
1188年1月4日)には最大定員を大少合わせて6名とすることになった。本来は
顕官の1つとして
史とともに
儒学・
文筆に優れた下級官人が任じられて昇進への足がかりとする役職であったが、
鎌倉時代以後には
明経道の家柄であった
舟橋家(
清原氏)・
押小路家(
中原氏)両家の世襲となり、また従来は
公卿が任じられていた
穀倉院別当に任命されるものもいた。なお、中原氏庶流出身者などは大外記には任じられず、替わりに権大外記に任命された。
室町時代に入ると、舟橋家は代々天皇の
侍読として外記を経ずに少納言に上ることになったために、局務は押小路家のみによる世襲となった。
江戸時代には押小路家は局務の権限として史生のみならず各省の
地下官人を動員して朝廷の儀式・公事の遂行に努めた。こうした地下官人達を「
外記方」と呼び60家以上が存在したと言われている。
外記の職務日記として「外記日記」が書かれて後日の参考としたが、平安時代後期には律令制の弛緩に加え、外記が職務に関する事項を個人の日記に記して外部に秘して、外記の世襲化と公的権威の付与を促したために衰微した。これを憂慮した
藤原頼長が外記日記の励行を命じたものの失敗に終わっている。