翌寛永18年(
1641年)に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる
旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の
天保の大飢饉に似た様相であるという。不作はさらに翌19年(
1642年)も続き、
百姓の
逃散や身売など飢饉の影響が健在化しはじめると、幕府は対策に着手した。同年5月、将軍
徳川家光は諸
大名に対し、領地へ赴いて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために
煙草の作付禁止や
身売りの禁止、
酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、
雑穀を用いる
うどん・
切麦・
そうめん・
饅頭・
南蛮菓子・
そばきりの製造販売禁止、
御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。これは、
キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。また、こうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。
大飢饉に至った原因として、全国的な異常気象のほか、江戸時代初期の
武士階級の困窮が指摘されている。幕府は、武士の没落を驕りや華麗によるものと捉え、
武家諸法度などで倹約を指示していた。武士の困窮は
百姓に対する更なる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。