天文元年(
1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記載が見受けられることから、当時より
城として呼称されていた。寺院が城に変化できたのは
加賀国より城造り人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。山科本願寺の構造は「輪郭式」あるいは「回字式」と言われる近代城郭の縄張であり、この周辺、この時代の
戦国大名ならびに
国人の居城は
山城であるのに対して、山科本願寺は
平城で一世紀前に近代城郭の要素を含んでおり、『中世城郭辞典』には「城郭史上、特筆すべき城郭跡といえる」と解説されている。
山科本願寺の跡地は二十数回の発掘調査が行われているが、山科本願寺時代以前にも数多い遺構・遺物が発掘されており、山科本願寺やその周辺では古来より要所として発展していたようであるが、鎌倉時代以降は急速に遺跡が発見されなくなる。これは何らかの地形の変化があり、四ノ宮川と山科川によって形成された
扇状地になり、水田開発が困難になったためとも推察されている。
寛正6年(1465年)、最初は大谷
本願寺にあったが
延暦寺宗徒の攻撃をうけ破壊されると蓮如は
越前国吉崎御坊に移り、そして大谷本願寺の再建を願い京に近いこの地を選んだのではと考えられている。文明10年(
1478年)造営が開始され、「向所」「寝殿」「御影堂」、そして文明13年(
1481年)「阿弥陀堂」の落成をもって中心部「御本寺」が完成する。文明15年(
1483年)には「内寺内」「外寺内」が完成し、
延徳元年(
1489年)山科本願寺の東側に蓮如の隠居の地となる南殿が造営される。 明応8年(
1499年)蓮如85歳で没する。