また、古墳は東西を主軸にして、前方部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文にいう、石人や石猪が配置されていた場所であると目されている。
磐井は、『記紀』では「筑紫国造磐井」と表記され、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」(つくしのきみいわい)と表記されている。反乱者にも拘わらず「国造」「君」の称号が使われている。磐井は、
527年(継体21年)に近江臣毛野が6万の大軍を率いて任那に向かおうとした時に、肥・豊の兵を動員して政府軍を阻んだ。そこで翌
528年(継体22年)
物部麁鹿火(もののべのあらかい)に惨殺された。ここまでは『日本書紀』に記された内容であるが、一方で磐井は「惨殺」されずに生き延びたという話が地元に残っている。