そして重政の後を継いだ
勝家は父以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まった。勝家の残酷さを示すものとして、年貢を払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる「蓑踊り」という処刑方法があったという。また、年貢を払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、
寛永14年(
1637年)に
天草四郎を総大将として有名な
島原の乱が起こる。領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉軍単独ではとても鎮圧できなかった。ここに至って
江戸の幕府も事態を重く見て、
板倉重昌を総大将とした鎮定軍を派遣するが、重昌は功にあせって戦死してしまう。代わって「知恵伊豆」で有名な
老中・
松平信綱が総大将となる。信綱は
九州諸大名およそ12万を総動員して、
原城を兵糧攻めにした。この中には戦国時代の古強者・
立花宗茂らも加わっている。反乱軍も兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱は鎮圧。四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しとされてしまった。乱鎮圧後の寛永15年(
1638年)に領主の松倉勝家も苛酷な政治を敷いて領民に反乱を起こさせた責を問われて、斬首刑もしくは切腹に処された。
武士の尊厳すら認められぬ斬首に処されたことから、如何に勝家が重罪に問われていたかがうかがえる。