寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって
寛文6年(
1666年)には
酒井忠清が
大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導のもと老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった
寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、全国的な流通・経済政策が展開され、『
本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には
蝦夷地での
シャクシャイン蜂起などが起こっているが、家光期以来の
鎖国政策が堅持された。また、この時期には
伊達騒動や
越後騒動など大名家の御家騒動も発生している。