恒世親王(当時は「恒世王」)の立場は誕生時から複雑なものであった。父親の大伴親王(当時、後の淳和天皇)は、桓武天皇の子であると言っても夫人
藤原旅子の子であり、
皇后(
藤原乙牟漏)所生の
平城・
嵯峨両天皇、いわゆる「后腹」の親王による皇位継承を目指した桓武天皇の方針からすれば皇位継承から外れる存在であった。だが、乙牟漏の外戚である
藤原式家はこの時期停滞しており、「后腹」の親王の政治的立場を強化するために平城・嵯峨の同母妹である高志内親王を同じ式家出身の母親を持つ大伴親王に嫁がせたと考えられている。ところが、平城・嵯峨両天皇の后(当時の后はそれぞれ
朝原内親王・
高津内親王)よりも先に高志内親王が恒世を儲けたことで事態は複雑となった。平城・嵯峨天皇に次いで桓武天皇の嫡流に近い皇族が恒世ということになってしまったのである。既に平城天皇には
高岳親王がおり、後に嵯峨天皇にも
正良親王が誕生するが、高岳は
伊勢氏、正良は
橘氏を母に持つため、桓武天皇との親疎では恒世には劣っていた。このため、恒世王が平城・嵯峨に次ぐ皇位継承権を持つと考えられるようになり、更に父親在世中に父を飛ばして子を皇位に立てる慣例が存在しないために、恒世を即位させるために大伴親王にも皇位継承を認めなければならない事態となったのである。大伴親王はこの事態を憂慮して臣籍降下を申し出て自己と恒世の皇位継承からの離脱を図るも、平城・嵯峨天皇はこれを認めず、
薬子の変で嵯峨天皇の皇太子であった高岳親王が廃されると、恒世への継承を前提として大伴親王が皇太子とされた。
大伴親王は
弘仁14年4月16日(
823年)に即位して淳和天皇となる。皇太子には嵯峨上皇の強い意向で同月4月18日に当時従四位下侍従であった恒世王が立てられるが、即日辞退してその日のうちに嵯峨上皇の子である正良親王(
仁明天皇)が擁立された。この流れは淳和天皇の強い意向が背景にあったとされている。明確な記録は欠くものの、『
日本後紀』の記述よりその際に
親王宣下が行われて三品が与えられたと見られている。同年9月28日に
治部卿、10月21日に
中務卿に任じられた。だが、天長3年に中務卿在任のまま22歳の若さで病没した。淳和天皇は衝撃を受けて暫く政務を執らず、正道王を引き取って養子とした(後に仁明天皇の養子となる)。
・安田政彦「大同元年の大伴親王上表をめぐって」(初出:『続日本紀研究』第268号(1993年6月)・所収:「大伴親王の賜姓上表」(改題)『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年) ISBN 978-4-642-02330-6)