ペリー来航以来の
幕末の混乱した政局の中、政局の中心は将軍のいる江戸から
孝明天皇のいる
京都へと移っていた。
京都守護職(幕府
侍所)である
会津藩主の
松平容保は、配下の
京都見廻組や
新撰組を使って、討幕派の過激派藩士、浪士を厳しく取り締まった。新撰組は
池田屋事件で長州藩過激派を弾圧し、京都見廻組は
薩長同盟を成立させた
坂本竜馬を
近江屋事件で暗殺した。しかし、第14代将軍
徳川家茂が
第二次長州征伐に失敗すると、第15代将軍
徳川慶喜は朝廷に統治権を返上する
大政奉還を行い、
倒幕運動の大義名分を失わせた。朝廷が行政能力をもっていないため、引き続き旧幕府が新政府下の実質的な政権を担う予定だった。これに対し討幕派(薩摩藩・長州藩や
岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべく幼帝
明治天皇を利用してのクーデターを計画。徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し
王政復古を宣言する。これは旧幕府と上級公家を廃して薩長派を中心とした新体制の内容だった。さらに会議で徳川慶喜に対し内大臣の官位辞退と領地の一部返上(
辞官納地)の要求を決定した。さらに薩摩藩は藩士に命じ江戸で騒擾を起こさせたため、旧幕府軍は
討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮定するべく兵を進めた。
戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。「近代化を進めた新政府軍に対して、遅れた旧幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」というのは誤りで、実際は旧幕府軍も早くから軍隊の西洋化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていなかった。特に
海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力だった。開戦時での兵力や兵站は旧幕府軍が圧倒的に優勢だったが、
小銃での戦闘に習熟した新政府軍に対応できず大敗した。それでも旧幕府軍の兵力は上回っており洋化部隊も温存されていたのだが、
徳川慶喜が将兵を置き去りにしたまま脱出したこともあり士気が低下し自壊した。以降、徳川慶喜が降伏恭順に徹したため、反抗を続ける旧幕府勢力は糾合の核を欠き、戦力の結集が行えなかった。東北戦争では奥羽同盟に参加した藩の多くが、改革の遅れや財政難から軍備が立ち後れており、新政府軍とは兵力での開きが大きかった。同盟に合流した旧幕府軍の精鋭部隊も弾薬が欠乏すると、旧式の小銃を使用せざるをえない状況に追い込まれた。