藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である
良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(
実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた
長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの
南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が
遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。
その後、桓武天皇の長男
安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃
藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
800年、
崇道天皇と追称され、
大和国に移葬された。その場所は
奈良市八嶋町の
崇道天皇陵に比定されている。またこの近くには親王を祀る社である八嶋神社があり、さらに北に数キロ離れた
奈良町にある
崇道天皇社、
御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:
左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする
崇道神社がある。