孝謙上皇とは、彼女が
弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。
762年(天平宝字6年)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする理解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、
親王の待遇をもって
淡路国に流される。だが、淡路の淳仁天皇のもとに通う官人らも多くおり、また都でも
天皇の復帰をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった上皇は、翌天平神護元年(
765年)2月に現地の国守である
佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際は逃亡の時に危害を加えられた結果であった可能性が高い。