江戸幕府碁方の
安井家1世
安井算哲の子として
京都四条室町に生まれた。
承応元年(
1652年)、父の死によって2世安井算哲となるが、安井家はすでに1世算哲の養子
算知が継いでいたため保井姓を名乗った。そして
万治2年(
1659年)には21歳で
御城碁に初出仕して、
本因坊道悦に黒番4目勝ちした。
数学・
暦法を池田昌意に、
天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、
垂加神道を
山崎闇斎に、
土御門神道を
土御門泰福に学んだ。当時の日本は
貞観4年(
862年)に
唐よりもたらされた
宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで21歳の時に
中国の
授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが、
延宝3年(
1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した
日食予報が失敗したことから、申請は却下された。春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう
経度差)があり、「地方時」(今日でいう
時差)や
近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた
朱子学者の
中村?斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、
京都所司代稲葉正往家臣であった
谷宜貞(一齋・三介とも。
谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの
大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は
暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて
貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の
関孝和よりも劣っていたという説もある
[中山茂 編『天文学人名辞典』(『現代天文学講座』別巻)(恒星社厚生閣、1983年 ISBN 978-4-769-90073-3)「関孝和」項参照。]が、中村?斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた
徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
貞享3年(
1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに
江戸麻布に移り住み、
元禄2年(
1689年)に
本所に天文台の建設が認められた。元禄5年(
1692年)に幕府から
武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(
1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が
河内国渋川郡を領していたが、
播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(
1703年)、天文台は更に
駿河台に移された。著書に天文暦学においては「
日本長暦」・「三暦考」・「貞享暦書」・「
天文瓊統」、神道においては「瓊矛拾遺」がある。改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、
地球儀をはじめ、
天球儀・
渾天儀・百刻環(赤道型
日時計)などの天文機器を作成している。