昭和21年(1946年)12月、上海連絡班に所属していた田中は「濱口幹子」と名乗る女性が子供を連れて上海市内の松井公館に拘束されていることを聞く。調べてみると実は満州国皇弟・溥傑夫人の嵯峨浩であることがわかった
[「濱口」は浩の母の旧姓。「幹子」は浩の末の妹の名。]。彼女を放っておけば
川島芳子のように戦犯として処刑されると田中は判断し、自分独りで救出することを決心する。
12月半ば、単身自動車を駆って松井公館に行き、警備の厳重な表と違って手薄である裏手のすすきばやしの中に停めた。そして建物に忍び込んで浩親子を導いて裏口から脱出させ、自動車に乗せる。松井公館を出る際に、気づいた警備の中国兵が発砲するが、自動車をフルスピードで運転してそこを逃れ、見事救出に成功する。