石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は
鎌倉時代末期の
延慶2年(
1309年)に周防の
大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより
銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは
博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている
[大田市三十周年記念誌編さん事務局編『大田市三十年誌』(53頁〜54頁)1983年]。海上から山が光るのを見た神谷は領主
大内義興の支援と
出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て
1526年(
大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、
大内義隆が
九州経営に気を取られている間、
1530年(
享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に
大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。
1533年(
天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀
精錬技術である
灰吹法[灰吹法の伝播経路は、中国由来説と朝鮮由来説がある。前者は田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)など、後者は小葉田淳『日本鉱山史の研究 』(岩波書店、1968年)など。]に日本で初めて成功した
[『大田市三十年誌』(54頁)]。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から
鉱石のまま積み出され取引された。
1537年(天文6年)、出雲の
尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に
尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
大内義隆の死後は、
毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、
1562年(
永禄5年)には最終的に
毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には
吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた
[仁摩町誌編纂委員会編『仁摩町誌』(169頁)1972年]。その後、
1584年(
天正12年)に毛利氏が
豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の
朝鮮出兵の軍資金にも充てられた
[『仁摩町誌』(169頁)]。