堀部安兵衛の書いた「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」によると元禄7年2月7日に菅野が組頭の下で村上庄左衛門と相番していたとき、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまったため、ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決めたという。六郎左衛門は
堀内源左衛門正春の道場の門下生であり、同道場の師範代
堀部安兵衛とは甥・叔父の義理を結ぶ親しい間柄であったので、安兵衛宅を訪れ、自分が死んだ場合の妻子のことなどの後事を託したが、安兵衛は、自分も助太刀に参加すると言って六郎左衛門に着いて行ったという。高田馬場の決闘では、安兵衛は、村上庄左衛門の弟二人(
村上三郎左衛門と
中津川祐見)を切り伏せ、一方、六郎左衛門は、村上庄左衛門と斬りあい、致命傷を負わされながらも、なんとか庄左衛門の両腕を斬り落としたという。かけつけた安兵衛が村上庄左衛門に止めを刺し、六郎左衛門を介抱しようとしたが、すでに手遅れで六郎左衛門も息を引き取ったという。