221年、劉備は蜀の皇帝となった(
220年、曹丕が後漢を廃し、魏国を正式に建国し皇帝となったことを、認めない立場から)。また、諸葛亮らに蜀の法律である
蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに
劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の
専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。
その後、諸葛亮は魏に対しては、劉備の遺志を継ぎ
北伐を敢行した。この北伐の出師にあたり、諸葛亮が劉禅に奏じた『
出師の表』は、当時から現代に至るまで、名文として、非常に高く評価されている。
228年、魏の天水・南安・安定の3郡を奪うが、先鋒の
馬謖が軍令無視により街亭にて
張?に敗北した(
街亭の戦い)。天水・南安・安定の3郡は張?らに奪い返された。諸葛亮は軍律を模範的に遵守せざるを得ない立場であったため、自身の愛弟子である馬謖を処刑した。これが有名な
故事「
泣いて馬謖を斬る」である。
229年、魏の武都・陰平の2郡を奪った。その後も祈山周辺において魏との攻防が続き、宿敵の張?を射殺したが、
234年に諸葛亮が
五丈原において病に倒れ、陣中で死去し、ついに
中原への版図拡大の夢は潰えた(
五丈原の戦い)。