源頼朝の妹の夫
一条能保の娘全子を妻としていることから、
鎌倉幕府と親しく、
承久元年(
1219年)、頼朝の子で3代
将軍実朝が暗殺された後、外孫にあたる
藤原頼経を将軍後継者とした。同年右大将、右馬寮御監。同3年(
1221年)、
承久の乱の際には
後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した。乱後は、幕府との結びつきを強め、
内大臣(51歳)、
貞応元年(
1222年)に
太政大臣、翌貞応2年(
1223年)には
従一位に昇進し(同年太政大臣辞任)、娘婿の
九条道家とともに
朝廷の実権を握った。また、
関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。道家の外孫である
四条天皇がなくなると、公経の孫?子を
後嵯峨天皇の
中宮とし、?子所生の久仁親王(のち
後深草天皇)を
皇太子とした。以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となるとともに、持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった
近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり公経が養育していた道家次男の
二条良実をその後の摂関に据えるなど
朝廷人事を思いのままに操った。将軍・
中宮・
摂関の祖父、
天皇の曾祖父となった稀有な人物でもある。その死にのぞんで
平経高は公経を「世の奸臣」と記している。