賀茂忠行は覆物の中身を当てる「射覆」が得意であったといわれ、
延喜年間に時の
醍醐天皇からこの腕を披露するように命じられた。忠行の目の前には
八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている
水晶の
数珠」である事を見事的中させ、「天下に並ぶもの無し」と賞賛されている(
今昔物語)。
同じく「賀茂忠行、道を子の保憲に伝えし語」では、忠行がある貴人の家に
お祓いに行く時、幼いわが子・
賀茂保憲が供をするというので連れて行った。無事終わって帰宅途中に保憲が
祭壇の前で
供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した事を話すと忠行は自分の子のただならぬ
能力を予見し保憲に
陰陽道を教えたという。
このように賀茂忠行(
賀茂氏)が
陰陽道の三部門すべてを統括するにいたった背景にあるものは、
894年に
菅原道真による
遣唐使の廃止によって
陰陽五行説に関わる諸説・諸思想の最新の情報が日本に伝播されなくなったことである。大陸より最新の情報が入らなくなったことにより、既存のもののみ教授・利用しなくてはならなくなった為、ほとんどが
陰陽寮成立当初より存在する俗人官僚の子孫のみに履修生を限定し、閉鎖的に人材育成を行うことになる。この為、陰陽寮は賀茂忠行が活躍した時代には人員が少なくなってしまっていた。その影響を受け、陰陽寮内では本来は禁じられていたはずの複数部門の兼務や、本来は補助職・名誉職的要素の強い「権(権
天文博士・権
暦博士など)」職で対応するという状態が仕方なく行われつつあった。賀茂氏は、世襲となり閉鎖的に教育が行われていた陰陽寮にいわば「新参者」として参入し、陰陽道の根幹である
道教の持つ呪術に加えて、当時隆盛を誇っていた
密教などの
有神論的宗教や
呪術信仰を多様に取り入れ、陰陽道を「技術」から「宗教・呪術」中心に機能転換していき、
律令下において
天皇の権威を証明するのみの「権威的機関」・「慣例行事履行機関」となりつつあった陰陽寮、ひいては陰陽道の新たなる活路を見出すことに成功した。このような実績によって天皇や権力者に絶大な支持を得ることに成功し、人員の少なくなった陰陽寮内でたちまちその頭角を現した。加えて、陰陽寮
官人の人材不足による複数部門の兼務、という実態も相まって、才能・地位を認められた賀茂氏は一気に陰陽寮の主要部門をすべて独占することになったといわれている。