1899年愛知県名古屋市東区生まれ。少年時代は病気がちで、旧制愛知第三中学(現在の
愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。療養のため親元を離れ祖父の土地があった
三宅島に移り、そこで作家
武者小路実篤が唱えていた
新しき村運動(
原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた作家
幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に
三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に
日本社会党委員長となる
浅沼稲次郎や
大日本愛国党参与となる
浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想的社会主義社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者に接収された。
苦い経験をしつつも
社会主義への展望を棄てず、旧制愛知第三中学卒業後は東京の
左翼運動に参加する。
アナーキズムの大家であった
大杉栄や後の
日本共産党書記長
徳田球一らの支援を受け熱心に活動したが、その指導力を妬んだ仲間の裏切りによって逮捕された。それまで赤尾を慕っていた者達から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は釈放後の
1925年に
転向を決断する。ほどなく
建国会の書記長に就任し、以後活動の場を
右翼運動へと移す。
1942年の
第21回衆議院議員総選挙では東京6区から出馬し、
大政翼賛会の推薦を受けられない「非推薦候補」ながら3位当選を果たし、
鳩山一郎、
斎藤隆夫、
中野正剛、
笹川良一など他の非推薦議員と同様に
翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、
1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(
3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした
東條英機首相に対し野次を飛ばして議場退場処分(同年
6月16日)、翼政を除名され、議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元
国会議員待遇を剥奪されている(
当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も元議員として扱われている)。