文化大革命が始まると外交、軍事両方の重要人物として
林彪ら文革派の批判を受ける。「林彪は昔の部下」とあしらっていたものの、上海奪権に業を煮やした政治局委員らが
中央文革小組を批判すると、これを
二月逆流として
毛沢東に逆批判され、
譚震林らが自己批判するとともに職務停止。実権は林彪や中央文革小組に移った。翌
1968年に
河北省石家庄の製薬工場で労働することを命じられる。国内外での声望に配慮され
1969年の九全大会で中央委員の地位は確保したが、すでに有名無実となっていた。
・ 二月逆流以降、
人民大会堂で開催された外事関連団体の批判大会に出席した陳毅は、慣例となっていた『
毛沢東語録』読み上げに際して271ページを開くよう大声を出し、語録が270ページまでしかないと造反派の参加者が気づくと「陳毅はよき同志なり」と叫んだ。同席していた
周恩来が「(主席は)こう言われた」と説明し、会場は静まったという。
1972年1月10日の葬儀には毛沢東が突然弔問に訪れ、張茜未亡人ら遺族に哀悼の意を伝え「彼は立派な男だった。」と評価し林彪の陰謀を批判した。これは、毛が文革派から距離を置くきっかけでもあった。