16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む
高場乱(たかば おさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)という塾に入門する。興志塾は、他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。同塾で頭山は、進藤喜平太、箱田六輔ら後の
玄洋社の創設メンバーと出会う。このころのことを晩年の頭山は、「教えは徹頭徹尾、実践だった」と懐かしく回想している。
明治9年(
1876年)に、
秋月の乱、
萩の乱が起こる。これに合わせて頭山は進藤喜平太、箱田六輔らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄される。このため、翌年の
西南戦争を頭山満は獄中で知ることになる。
西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する
西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっているといえる。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。彼らは、海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を行いながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。
高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に
向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である
進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、
箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。さらに翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて
向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分達に気前良く金を与え「
スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。