しかし、
三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の
池田氏・
伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。そうした中、永禄11年(
1568年)に
織田信長の強力な軍事力の庇護の下
足利義昭が
将軍となると状況は一変する。義昭は土着の領主の一つである
入江氏を滅ぼすと直臣である
和田惟政を
高槻城に置き、さらに彼に
伊丹親興・
池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。まず
元亀2年(
1571年)、和田惟政が池田氏の被官・
荒木村重の軍に敗れて討死(
白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は
本願寺が領有する石山周辺(現在の
大阪市域)を除き、荒木村重の領有となった。
こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子
惟長が城主となっていた。惟長が弱年であったので高山親子は元亀4年(
1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となった。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった
中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう(フロイス「日本史」)。