幼少時貧困で、
隋末に
李密(
瓦崗軍)のもとへ身を寄せ、敗戦して唐へ帰する。
竇建徳の捕虜となり、才能を見出される。建徳の兵が敗れ、唐へ帰り、
太子洗馬つまり
李建成の側近の地位を得た。
玄武門の変で建成が死ぬと、
太宗は率直さを以て諫議大夫へ昇進させた、後に
秘書監、
侍中等の職を転任。癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めた。死亡時、太宗は非常に哀しみ、侍臣へ以下のように言ったという。「
人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。」(『
資治通鑑』巻一九六)。