北伐を志す
孫文は
1923年8月に
蒋介石を
ソ連に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた
[サンケイ新聞 1975 pp.50-62]。
1924年1月20日広州の広東高等師範学校において国民党は第一回全国代表大会を開くと
[サンケイ新聞 1975 p.64]「連ソ容共政策」が具体的になり
[サンケイ新聞 1975 p.64]、政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(士官学校)を創設することになった
[森下 1970 p.18]。その場所は以前、広東陸軍学堂と広東海軍学校があった
広東省広州の長洲島にある黄埔とされた。5月には蒋介石が校長、
廖仲?が軍校駐在の国民党代表、
李済深が教練部主任、
王柏齢が教授部主任、
戴季陶が政治部主任、
何応欽が総教官、共産党員の中からも
葉剣英が教授部副主任、
周恩来が政治部副主任に就任した
[サンケイ新聞 1975 p.73]。
黄埔軍官学校には当時革命軍にいた才能ある人材が集まったが、卒業生の中には
徐向前や国民党指揮官となった
杜聿明や
胡宗南らがいる。その教師と卒業生で組織された革命軍「教導団」は1925年1月の第一次東征の後に「党軍」となった
[サンケイ新聞 1975 pp.138-139]。この学校を卒業した者はのちに
国民革命軍の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、蒋介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく
共産党の指揮官になった
林彪、
彭徳懐もこの学校の出身者である。国民党が独自の軍隊を組織できるようになったことで、従来までのように地方軍閥に依存することなく、
国民革命を推進できるようになった。